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山田拓民さんのご証言: [ テキスト表示 ] | 動画証言ページ 証言者情報ページ |
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私が先も言いました様に1931年生まれですから、1945年の原爆の時、14歳、中学の二年生だったんですね。 それでね、私が住んでた所は、長崎の中では新興住宅街つまり団地だったんです。 で、そこは、どの位の戸数が有ったんですかねぇ、南側と西側と北側が小高い丘で、非常に綺麗な街でした。 で、南の丘の上にはシロヤマ小学校っていう私が卒業したかなり立派な学校が有りましたし ほんとに長崎の中ではここが一番安全な所じゃないかと言われる様な所だったんですけど、 その、シロヤマ小学校から300m程行った所に、原爆が落とされた。 私の家から、この、地図の上で測って見るとですね、900m位のとこなんですね。 で、私の家は、シロヤマ小学校のちょうど向かいの北側の丘の中腹に有った訳なんで、 えぇ、まぁ、900mってのは、ねぇ、あの、歩いて10分程の所になる訳なんですね。 で6人家族だったんですよ。父と母と、それから姉と、そして私と、えぇ小学校6年生の弟と、それから未だ生まれて9ヶ月赤ん坊の弟の、6人家族なんですね。 で父は、当時の商業学校、今の商業高校ですけど商業学校の教師してましてね、 ま、当然その頃ですから、生徒たちは学校で授業を受けるという事ではなくて、軍需工場へ動員されましてね、 教師ってのはその付き添いが仕事って言うような時代でしたから、 父も、今長崎大学があるところですけども、そこに三菱の大きな工場があったんですね、それでそこへ生徒たちを連れて行ってた。 で、そこがね、非常に広い所ですから、爆心地からの距離も様々有る訳なんですけども、 父が被爆した所ってのは、・・・ まぁ実は私たち被爆者ってのはね、あの身分証明書みたいな物を持ってるんですよ、 被爆者健康手帳と言ってですね、その被爆者健康手帳には、何街で被爆した、そこは爆心地から何キロの所だっていう事が書いてある訳なんで、 であの、父の場合には1300mと言うような書かれ方がしてあります。 私はあの、長崎の市内のですね、ずっと東の外れの方に私が通っていた中学が有りましてね、 で、その中学ってのは、学校の中に工場が設けられてた、 別に工業高校じゃ無いんですけどね、理科室なんかを潰して、そこに三菱なんかの工場から機会を運んで、 そこで、私たちの学年てのは作業していた訳なんですね。 私はどういう訳か授業を受ける組だったんです。 私たちの中学ってのは、まぁ言ってみればエリート校だった訳だったんです。 つまりエリート校って言うのも軍の学校に沢山進学するっと言う様な意味でですね、 そう言う所だったもんですから、大事にされて、授業が本来無いはずなんだけども・・・授業も、まぁ非公式に有ってた訳なんですね。 でまぁあの、その日はね、朝から空襲警報が出たんです。 で空襲警報の時には学校に行く必要は無かったんですけども、 私の家からはね、歩いては、ちと小一時間掛かっていた訳なんです。 当時も電車は有った訳なんですけど、市内電車がね、有った訳なんですけどもね、 中学生が、そんな電車に乗るなんて生意気だと言う風な事で、 見つかればぶん殴られると言う様な時代でしたから、まぁ歩いていた訳なんですね。 そうなるとね、空襲警報が解除されてから学校へ行ってたんでは、一時間も掛かってしまうから授業に遅れると、 しかも長崎はそれまで、市街地は殆ど空襲の被害が無かった訳なんで、 ですから、空襲警報であっても、まぁ舐めてしまってて、大した事はないや、て言うことで学校へ行っていた訳なんですけども、 まそれが私が命拾いをした事に繋がった訳なんですね。 でそう言うところで私が被爆した所は鳴滝街とういう所ですけれども、 これも、私の身分証明書では3.3キロと言う風に書いてあります。 でそれでもね、建物は歪みましたしね、木造のボロ校舎だった事もあるんですけど、 ほんとにあのぅ崩れるんじゃないかと、私二階に居たもんですから、そんな印象受けたんですけどね、 で、あの、窓ガラスは全部割れてしまって天井の張りなんかも落ちてくる様な有様でまぁびっくりした。 けれども、体には怪我は一つも無かった訳なんで。 で、何が起こったかが解らなかったんですよ。 近所に大きな爆弾が落ちたんだって思うけども、 爆弾が落ちるとね、こう家が壊れたりそれから大きな穴が開いたりする訳なんだけどそんなのも全然気配が無い。 何が起こったか解らないと思いながらも未だ、爆撃が有るんじゃないかと思って怖くてそこを動けなかった。 原爆が落とされたのは11時2分(午前)て言われていますから、それからね、約一時間、教室に約10人程の友達と一緒に居た訳ですね。 そして、その頃になると先生が教室廻って見えて、「おぅ、未だ居たか」と言う事でね「早よ帰れ」言う事で帰り始めたんですよ。 今度は帰るのが大変だった。 ちょうどねぇ長崎駅辺りが、私と中学と、私の住まいとの真ん中辺りになるんですけど、 長崎駅までの所は大した被害は無いんです。 ところが、長崎駅の近くから、火災が次々有ってますし誰もね火を消す人が居ないんですよ、 そして火の勢いがどんどん強くなってゆく、もう駅前から先は通れなくなったんですね。 で、山を越えてそして私は家へ帰り着く訳なんですけども、 その途中が、まぁ死んだ人大勢居ましたし、大怪我をして道端に座り込んでる人たち、 そう言う人たちのそばを通りながら、 シロヤマ町の私の家に母と姉と二人の弟が居るわけですけども、 ほんとにもう、こりゃぁこの連中もねぇ、恐らく無事じゃ済まんだろうと、生きて無いかもしれないと言う様な気持ちで、 だからね、あんまり周囲を見渡すようなゆとりは無くって、ま、一生懸命帰った訳なんですね。 ほんで帰り着いた。したら、家はもう”ぺしゃんこ”でした、 で直ぐしたまで燃えてるんですね。もう火が上がってる。 私の家、中腹でしたから、ちょっと高い訳で、私の家の並びは燃えてないんですね。 だからね、原爆で火災が起こると言うのもね、あのピカっとして、家が潰れ、そしてさぁっと火が起こる、 そう言うのは爆心地の近くだったら有るでしょうけども、 一キロばかり離れている私の家辺りにはやっぱり燃え易い物に火が付いて、 それがずぅっと燃え広がって行くと、言う事だったんだろうと。 で、高台だった為に下は火の海ですけれども、私の家の並びは燃えずに済んだ。 ただし、完全にもぺちゃんこになってしまった。 で、その頃ですね、私の家からちょっと離れた所に、当時の隣組み、今なら自治会とかって言う所ですけど、その隣組で、共同で掘った防空壕があったんですよ、かなり大きいのが。 で、そこがもしもの時に逃げ場だと言う事で話し合ってましたからね。 私のところに誰も人影が無いから、そっちの方へ行った見た。 でもう、本当にどんなになってるだろうと思いながらね、行ったんですけども、 どんなになってるってのは、母たちがね、怪我をしてるんじゃないか、死んでるんじゃないか、と思いながらとにかく避難場所でしたからそこへ行って見たら、 近所の人達がね、まぁ、世帯ごとに、座り込んでるんですねぇ。 で、その中に、家の四人も居た訳なんです。 で、見たらね、あんまり大した怪我していないんですよ。びっくりするぐらいね。 ほいで、母達がね、私はどっかで死んでると思ってたので、まぁよかったねぇと言う事で、父はまだ帰ってこないんですけどね、 そういうわけで、「ああ、良かった良かった。もう家はめちゃめちゃになったけど」 家はめちゃめちゃになったばってん、生きとりゃなんとかなっさ、言う様な事で励ましあいながらその日は暮れた訳なんです。 父は帰って来ないんだけども「オヤジはその内帰ってくるさ」6人家族で、とにかく5人がまずまず無事だったんです。 で、母達はね、家の中に居て、そして家が潰れた訳なんですね。 ほんで家が潰れるとね、柱とか張りとかで、体が挟まれて動けなくなるというのがよくあるんですけども、 まぁ、幸いな事にね、そう言うことにはならずに、 そして生まれて9ヶ月の赤ん坊はね、布団ひいて昼寝させてあったらしいんです。 そうすると、その布団がぐるぐるっと体に巻きついてクッションになってこの子なんかは全然怪我が無かった。 で母達も怪我してましたけれども、あの原爆の時のみんなが受けた傷から見ればね、かすり傷みたいなもんなんですよ。 潰れた家から出てくる時に、掻き分けて出てくる時にね、こう、ひっかき傷が出来たらしいんで、 着てる物もボロボロになるしね、そう言う風な事でねあんまり怪我が無かったんで、 小学校6年生の弟はね、玄関の近くに居たらしくて、玄関ガラスが入ってましてそのガラスの破片で怪我してましたけど、 それも血が止まらずに死ぬようだとか言う事じゃないんですよね。 で、あぁ良かった良かったと言う事でその晩は済ました訳なんです。 で、帰ってくる途中にしてもね、私には理解出来なかったって言うのはね、 ものすごい閃光と、爆発音と、爆風が襲ってくるんですけど、それ一回切りなんですよね。 その頃あちこちの空襲の話を聞いてまして、 正式にね新聞なんかで報道されるのなんかは無いんですけども、 噂でね、大抵そう言うときの空襲ってのは、夜中に始まって、明け方まで何回も何回も爆弾が、焼夷弾が次々落とされていって 焼き殺されていく、家が焼けいくというそういう形で語られてた訳なんですけども、 その長崎の場合には、とにかく一発しか聞いてない。 それもどこに落ちたか解らない爆弾で、これだけ広い範囲に燃え上がっている現実と説明が出来ない訳なんですね。 何が起こったのが解らないというのがずっと続いて行くんですよ。 そしてね、一日経ち、二日経ちして三日目にですね、その全く無傷だった赤ん坊の弟が死んだんですよ。呼吸が止まって。 そして、母はね、抱きかかえてて、こう、ゆすぶって、名前を呼んでたんですけど、そのまま死んで行く。 で、これも何が何だか解らない一つですよね。怪我が酷くて死ぬのは解るんだけども、怪我が全然無いのが死んだ。 で、「どうして死んだのか」と言いながらね、その晩母は、その死んだ赤ん坊を抱いて寝た訳ですね。 寝るって言うのはね、地べたにごろっと寝るだけなんですよ。 4人ていうか5人ですね、そのぅ、体を、こう、くっつけて寝る。 そして翌朝目が覚めたらね、姉が死んでたんですよ。 姉はね、体が弱かったんです。それで家に居た訳なんで、元気だったら、それこそ工場などへ動員されていた事でしょうけど。 私より二つ年上でして、それが死んでた。 そうなるとね、13日の事ですけど、12日の夜遅く死んだのか、13日の朝早く死んだのかも解らない、 もぅ、こっちもね、くたびれ果ててるんですよね。 今になって考えりゃね、例えば放射線を浴びるって言う事で、倦怠感がものすごく襲ってくるって言うのはもう定説なんですけども、 その頃は、それが原爆だって事も知らないし、放射線とか放射能とかて言う事は知らない訳なんでね。 ただ、食べる物もろくに無かったって言う事も有りますけども、とにかく体がだるくてだるくて何んにもする気が無い、 そう言う事で日を送ってた訳だったんですけども、そう言う中でそうやって二人死んだ。 そうするとねその頃になると、もうねぇ、あちこち、あたしの家の近くの死体が転がっているんですけども、そういうのが腐りだすんですね、 あの暑い中にほったらかされてるんですから腐るの当たり前なんで、 あの惨たらしい死体が益々惨たらしい死体になって行く。 で、死んだ二人もですね、姉やその赤ん坊の弟も、そのまま置いていたら腐るわけですから、 やっぱりもう早く始末せなあかん、言う事で、ま、幸いって言うかね、燃え残った材木が沢山有りますからね、 そしてもうその頃になるとね、あっちでもこっちでも自分達の手でその遺体を焼く光景が見られた訳ですね。畑の隅、空き地。 ですからそう言うのを見ながら見よう見真似で、材木を積み上げて、そして二人を寝せて火を付けた。 長い長い時間が掛かったんですよ、焼けるのにね。 そいでねぇあのうもう、後になって本当に後悔したのはね、 母が、やっぱり火のそばに居たんですよね、直接手を下したのは私ですけども、 やっぱり、母は火のそばに居た。それがね、悔やまれてならない。 母親にとってみたらね、子供が死ぬだけでも大変な事ですよね。 で、そしてその子供達が目の前で焼かれていく、これはもうものすごく残酷な事、 悲しいとか何とかの言葉では表せない様なね、そう言う事だっただろうと。 どうして、それにね、僕気付かなかったのか、と言うはね、ほんとに後悔したんです。 それはもうちょっと後になっての気付いたんです。 その時はね中学二年生の僕は、そう言う、あの母親の気持ちを理解するなんて事は、未だ出来なかった。 で、そう言うね、あの、人間の母親としてね、ほんとに苦しい目に遇った母だったんだけども、それから10日ほどしか生きていなかった。 で二人をお骨にしたあと、もうシロヤマの家には住めないと言う事でね、 伊瀬鮠っていって隣の市が有るんですけども、そこにね父の母、私のおばあちゃんが住んでたもんだから、そっちへ、もう逃げて行こうと言う事で お骨を持ってって行こうとするけど、入れ物が無いんですよ。 で、たまたまね赤ん坊の弟の為の粉ミルクの缶が有ったんで、それを、粉ミルクを捨てて、その中にお骨を二人分いれるんですが、 一人はね、もう16歳になってますから、ほぼ一人前ですよね、だからその小さい粉ミルクの缶に入りきれないんです。 大部分は入りきれないんで、その空き地の隅を掘ってそこに残ったのを埋めて、その缶を、まぁ風呂敷が出てきたんで風呂敷に包んで、伊瀬鮠湾に行ったんです。 で、伊瀬鮠湾に行ったらですね、親父がこっちの病院に入ってるよっておばあちゃんが言うんですね。 結局ね、親父はものすごい怪我をしてた。 前の方は焼けど、顔から胸、お腹、両腕、特に顔とね両腕が酷かったんですけど、ほんとに、もう皮なんて残って無い、生身がそのままむき出しになってると言う様な。 だから、親父とねぇ、そうやって会えて、嬉しかったかと言うよりはね、ああ、親父何日もつかなぁ、と言うのがその時の気持ちでした。 で、伊瀬鮠には大きな ”海軍の病院” があったんですね、で、そこへ収容されていたんです。 そこへ私達も行って、母達もかなり疲れてましたのと、父のそばで看病すると言う様な事も有って、その病院に入ったんですね、入れてくれたんですが。 そしたらね、弟がね、小学校6年生の弟がね、血の混じった下痢をしてたんですよ。 これもね、あの被爆者に良く見られる事なんですね。 放射線でね、腸がやられて、そして出血して、小さい血管等が、放射線でやられて、あちこちで出血するんですね、どういうメカニズムか知りませんけどね。 例えば歯茎から出血するとかね、皮膚の下の毛細管がやぶれて斑点が出るんですね。 そう言うことはね、もう今では、あの放射線障害として常識ですけども、その頃は医者でも解らなかったんですね。 海軍の病院ですから、まぁあの軍医ですよね。 戦場でのねぇ状況なんてのでは、戦場での言わば常識では通用しない爆弾だった訳なんでね、 だから、血の混じった下痢をしてるってのを知った軍医はね、赤痢だって言う風に判断して、弟を隔離病棟に一人だけ入れられるんですね。 せっかくねぇ、母と親父と揃った所に一緒におれる筈だったのに、一人だけポツンと隔離病棟に入れらてしまう。 で、そこへ行ってからね、もう次第に衰弱が酷くなって、そして母は23日に死んだんです。 そして、もう弟もね、起きてるのか寝てるのか良く解らないような意識が朦朧とした様な状態になって、母が死んだ翌日、死んだんですね。 結局ねぇ、それが23日と24日ですから、9日に原爆が落とされて、2週間程の間にね、そんなに怪我も全くなかったとか、或いは怪我有ってもね大した事無かった4人、全部が死んでしまった。 で、親父はそう言う酷い怪我をしてた訳ですけども・・・ そのねぇ、酷いって言えばね、その海軍の病院を、9月になると、占領軍が摂政すると、言う事になったんですよ。 原爆でねぇ、負傷者を治療するて言うんじゃ無くて、追い出すんですよねぇ。 それで、そう言う事も有ってね、もう親父もね、一つはこんな母達が死んで行ったね、病院には居たくないって言う様なところも有って、そして、おばあちゃんの家に、まぁ、移った。 そして町医者が来て、あのう、看病していた訳ですが、 この、不思議な事にね、そんな酷い火傷をしていながらね、回復して行くんですよ。 で、酷い怪我の跡、火傷の跡を残しながら、教壇に戻ったんです。 父が勤めた学校自体もね、もう完全にやられましたし、生徒達の多くもねぇ亡くなったり、怪我をしたりしてる訳で、 えぇ、ほんとに教師も、生徒達も、怪我の跡を残しながら授業を復活した訳です。 ともかく、親父がそうやって仕事に就けるようになったんで、私はそのまま学校を続ける事ができてね、えぇ、中学、高校、大学と行けた訳なんです。 親父もねぇ、元気、まぁ見た目、非常に元気でしたよ。 ただねぇ、あの原爆から16年経って、1961年に、夏、まぁ酷くねぇ、父は咳き込んでたんですねぇ、 それで、まぁちゃんと診て貰わにゃいかんよって言ってたら、 原爆病院、長崎と広島には原爆病院ちゅうのが有るんで、日本赤十字の病院ですけどね、 そこへ、行ったら、もう、即日入院です。 肺がんでした。しかも手遅れって言う事で、そして、1961年の12月に、死んだんですねぇ。 で、そう言うことで、6人家族は、長崎でも一番安全な所じゃないかと言うところに住んでた、 その6人家族でしたけどねぇ、結局は私一人が生き残った。 で私自身、どうなのかっとやっぱり気がかりですけどね。 と言うのが、被爆した、その瞬間の場所が3.3キロも離れてたから、それ程大した影響は無いだろうと思うけれども、 その日の4時頃は、もう爆心地から何百メートルと言う様な所を歩いて、通って、そしてその後14日まで、そこで暮らした訳けです。 しかも地面にごろっと横になって寝ると言う様なそう言う過ごし方ですからね、 これは地面てのは危ないですよねぇ、あのう、これも私は専門外ですから、受け売りですけども、 中性子が物質に当たって、例えば石でも泥でも、そしてこんどはその石や泥が放射線を持つ様になると、 まぁ二次放射線と言うんだそうですけども、そう言う中で生活をしてたんだから 何らかの影響がある筈だと言う様な気はしますけども、 まぁ幸い今の所無事で居ると言う風な状況です。 |
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