Testimony to the truth by atomic bomb casualty.
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Japanese  
Please know there are many people who have the charactor and the life under dropping it.

坪井 直さんのご証言: [ テキスト表示 ] 動画証言ページ 証言者情報ページ
  Hiroshima Japan

       証言者名:  坪井 直さん

       当時の年齢:  20歳

       性別:  男性

       当時の職業:  大学生

       爆心地までの距離:  1000m

       撮影日時:  2006年7月1日

       現在の職業:  日本原水爆被害者団体協議会理事長

       動画再生時間:  150分

私は、広島で被爆した中の1人です。
坪井 直と申します。
今から61年前、1945年8月6日午前8時15分に、
原爆が、広島の地上約600mのところで炸裂しました。
私は当時、爆心地から約1kmの所で被爆する訳です。
ま、地図の上から言いますと、
ここが爆心地
それから1キロですから、
この同心円は、500メートルづつ区切ってあります。
私、ここですねぇ。
まず、で、地図の話をしときますが、 ピンク色のところがですね、全壊、全焼したんです。 いわゆる原子砂漠が出来上がった、言うのがここなんですね。
ま、だから早く言えば旧市街は殆ど灰燼に喫したと、こう言う事です。
で、(地図上のこの爆心地から)1キロ(がここ)ですけれども、 (そしてここが)500メートル以内で、 (ここには)平和公園がここにありますが、
500メートル以内で(建物の)外に居った人、 その人は100%亡くなりました。一人も生きている人おりません。
1キロになりますと、やや生きとる人が居るんですけども、60%が亡くなりました。 家の中に居るとね、あの生きる確率は高いんですよ。
しかし私らんところは、60%死にます。
私も通学途中と言いますか、大学に行く途中で受けたんですから、 外で受けた事になります。
そこで、40%の生存率で私は今も生きとるわけです。
だから60%は皆、バーンと死んでしまったんです。この1キロ以内はね。
だから、そうとう酷い目に遭った方なんです。
さて、地図の話はその位にしときますが、また、問題が起きた時には示します。
8時15分に、実はこの爆心地の上で、”バァーン”と炸裂する訳ですが、
実はね、7時40分頃私はとある食堂に入りまして、朝食を摂って大学へ行こうとした。
で、お粗末な食事でありましたので、 とにかく、それこそ、3分か5分で食事を済ませて、
その空の食器をお膳にいれて、昔も人手が有りませんので、 セルフ(サービス)だった訳ですから、
で、カウンターの向こうに、娘さんが居られました。 その娘さんにね、「御馳走になりました。有難う御座います。」こう言ってね、 空の食器を渡した訳です。
そして御礼を言って私が出ようとした、その食堂を。
私から見れば”出口”です。相手から見れば”入り口”なんですね。 そこでバッタリね、下級生3人に遇ったんですよ。
でその、三人がね、 「坪井先輩!もう一度ご飯食べましょう!」こう言ったのでねぇ、 私も日頃から戦時中物が無い時代ですから、食べておりません。
従って、私もですね、その誘いに乗って食べようとしたんですが、 その中の1人が、「先輩、食券なら私が何とかします。」
その当時ね、食堂へ入ってもね、お金だけでは食べられません。 市役所が発行している食券を持っていかないと食べられない。
その食券をね、学生は一日3枚で貰う訳です。
しかしその、申請して食券を市役所で貰ったらですよ、 そりゃもうお米の配給とかね、肉・魚・野菜・果物、食べる物は 一切配給がストップ来るわけですよ。
まぁもう、お米を買う事も出来ません。 米穀通帳に、ピタっとそう言う事が書かれるからね。
さぁそこで、その中の1人が 「食券なら私が工面しますから、一緒に食べましょう!」 言うもんだからねぇ、
私はその時に、食券がどれだけ、まぁ命の次に大事だと言う事はね、 よく身に染みて・・・、 無くしたら大事ですよ。食べる物も無くなる。
そう言う様な事でね、感動しましてね、 ”よし、それじゃ一緒に”と思って歩いてこう、中へ入って行ったんですが、
その中ごろでですね、私は、はたと止まってね、 そりゃどうしてかと言いますと、
今食事を終えて、そのカウンターの娘さんにね、 「御馳走になりました」と、御礼を言っとる。 それがまた直ぐ食べようとするとね、
その娘さんに、「あぁ、この学生卑しいなぁ。 今食べて、また食べようとしてる。こんな卑しい大学生見たこと無い」と、 そう思われやしないかと・・・。その娘さんが言ったんじゃないんですよ。
そう事を思い出したらね、ちょっと恥ずかしく成り出したんだねぇ。
私も若いし、その当時は二十歳ですから、 まだ若かったからね、恥ずかしくなったんですよ。
まぁ食べた上、また食べる言うのはねぇ。
そこで私はね、その三人に 「おぅ、俺は学校に行く、昼また会おう!」と、言って別れたんですね。
それが、私がその食堂を出て大学へ行く途中で、”バァーン”ですから、 別れたのはもう、8時過ぎなんですね。
でそこで、そう言うことは後で判る訳で、 その当時は、”俺は学校へ行かにゃならん”て言うわけで必死に・・・。 (学校へ向かう)
その三人はですね、ま先に話しをしときますが、 (これから話す事が)判ったのはずいぶん後からの事ですけどね、
その三人はその食堂でね、三人とも全員死亡したんですよ。
だからその事を大学へ行って聞いた時にはね、 ほんと涙がぽろっと出ました。
”はぁ、かわいそうな事をした”と。 思い出せばね、「昼また会おう!」と言うたのが最後の言葉だったんですよ。
だから、その三人に対してね、もう戦争がもちろん終わった時ですよ、 (戦争が)終わってから大学へ行っての話ですから、
”はぁ、かわいそうな事をした”と思ってね、涙を出しましたが、 その時はそれで終わってた。 ただ、”かわいそうな”、”気の毒だ”、だけだった。
ところがね、その三人についてもうちょっと話ししときますと、
その三人についてのね、私の思いが変わってきました、(と)言うのは、
ただ、”可愛そうだ、気の毒だ”だけでは無くなったんですね。
考えて見ればね、 もしですよ、戦争も無く、原爆も落ちなかったら、
その三人はね、真面目に朝食を摂って大学に行こうとした。 何にも悪い事はしてはおりませんやね。
その三人がですよ、一瞬にして死んでしまった訳ですね。
その三人がもし、原爆や戦争が無かったらね、真面目に勤めて、大学を出て、 世の中へ出たらああいう職業に就いて、色々な事を尽くして行こうと言う、 その為のね、三人とも能力をも持っとったもんですよ。
だから大学を出てね、色々な将来に対する夢や希望が皆有ったに違いない。
それが、まぁ私よりちょっと年下ですからね、 18や19(歳)のその学生がですね、 三人とも、”バーン”、死んだ。
その事を思うとね、 戦争なんて、或いは、原爆なんて、 なんと、惨いものかと、
人の一生を潰してしまう、 人を殺すだけじゃ無いんだという事を目覚め出し、
”平和の為に、俺は力を尽くさにゃいかん。”というのはね、 そう言うところから発しました。 ま、いろいろ有るんです、私が平和の道に飛び込むのは。
あるんですが、先ず、そう言うことが有ったですね。
だから、彼らの為にね、 本当前途有利な若者がね、 一発の原子爆弾で、死ぬ。
そう思ったら、ほんとねぇ、もう、やるせなかったですねぇ。 なんとも言えぬ気持ちになる。
しかし、 ”その三人の為にも、俺は、この地球上に平和を勝ち取らにゃいかん。” っと言う気持ちにも成りましたよ。
さて、そう言う事が有ってね、私の方へまた話を戻しますがね、
で、こう歩いて行きよるとね、左上の方から、”シュシュシュっ”、音がした。
そこでね、まぁ爆風で、目が飛び出たり、鼓膜が破けたりしますので、
日頃から訓練をしていた通りにですね、 ”シュ”というたとたんに目と耳とを塞いで、 ”ぱぁっと”倒れようとしたんですが、
手が(顔へ)行く前にね、 ”ピカァー”っと光ってね、 銀色にね赤味が混ざっていました。
ところが、視界と言うますかね、 見える範囲が全部光なんですからね、 そりゃぁ、びっくりしました。
時々外人がね、その”ピカァー”っと光った時に、 「何を感じられましたか?」と、聞かれますがね、
私の答えは、何時もね、 「何にも有りません。びっくりした!」それだけです。 「”あっ、”思っただけです。」とこう言うんです。
何にもその時には考えるも何にも無かった。
まぁ、僅かの瞬間、その1秒も経たない内に、 私は”バァーン”、飛ばされる訳ですね。
10メートル位ですから、この壁から向こうの壁位までね、 ”テーン”、飛ばされた。
それで、多分に漏れず、気を失います。 それからね、何分経って気が付いたのか知りません。
或いは誰かに助けられたとかそれも知りません。 とにかく伏せたままだけれども、気が付いた(意識が戻った)んですね。
もしその時気が付かなかったらね、”バァーン”、飛ばされて その人達は皆、8月6日死亡として、慰霊碑の中は入っとるんですよ。
原爆死没者名簿へね。入るんです。 だから私もその時に気が付かなかったのも、 理由は判らないが、運が良い事に私は気が付いた。
(気が)付いて顔をこう上げましたらね、もう、真っ暗。 だから、100メートル先、見えませんよ。
その時にまた、2度びっくりですよなぁ。
”わぁ、こりゃ、なんとやられたか、” だから、時間もちょっと経っておりましたから、
”よくもやったな、”いうのはこの頃から思い出した。
”よし、今に覚えておけよ、アメリカの野郎、何時かこの敵を討つぞ”、
そう思ってね、どう言いましょうか、身震いしたと言うか、もう、興奮状態で、 ”カァー”っと上気しましたよ。
ねぇ、まぁ熱が上がった言うかね。”ワァー”っとこう、きました。
ところがね、 私達は真っ暗でしたから、何処へ逃げて良いのか解らんですね。
あの、被爆者の中にはね、あのそりゃ、色々な人がね、「原爆のあの原子雲が凄かった。」7000メートルくらい上がるですからね。 ”もくもくもくもく”。
まぁ、赤じゃ黄じゃ緑じゃ紫とかいった色が付いてね、うわぁ~っと上がったという事を言う被爆者が、そりゃたくさん居りますよ。
しかし私達は、そんな事は言いません。 ”原子雲”は一切見ておりません。
それはね、旧市街に居った人はね、原子雲は見ておりませんよ。ど真ん中に居った。
だから、これこれ、これ(地図の爆心地に近い地域)の中に居ったんだから、私は。
外から見た、だから原爆の雲を見た人はね、それはもう、あれですよ、遠くに居た人なんですよ。
或いは、30キロ(メートル)、40キロ、50キロからでも見えた訳ですから。
そりゃまぁ、ここら(爆心地から離れた地域)の人ですよ、そういうところから見た人は、あの、物凄いのを見とる訳です。
私達は見ておりません。だから、原子雲を知らないと言う被爆者はね、そりゃ、真下で受けた人ですよ。
そう言う人は悲しいかなね、殆ど無くなりつつある。いわゆる直爆言うのは。
そうでない人は全国に26万人居りますね、まだ。原爆手帳持って居るのは。
しかし直爆受けてね、傷だらけになった人言うのは、もう、万(1万人)を切るんですよ。
あとのもう25・6万はね、皆、後から入った入市、入市の人も手帳貰えますから、
あるいは、広島を全然しらない、原爆被爆者が逃げてきた、その被爆者を介護した人ね、看護した人、
これも、残留放射能を受けとるだろうから言うので被爆者手帳を出しとるのですよ。
その人は広島の惨劇言うかそう言うの一切知りません。
知らなくても、例えば遠い府中とか、庄原とか三次の方の人でね、看病した人だけは、被爆者という証明書、手帳を持っとる訳ですよ。
或いは胎児、その当時お母さんのお腹の中ん居った、そういう被爆者いうのはね、(広島の惨劇を)知りません。
だから被爆者も四種類ありますのでね、我々の直爆言うのはもう、一万は人居りません。
あとは、もう皆、入市とか色々な被爆者なんですね。
まぁ、60年間の間に皆、我々と同じ様にこう、中に居った人は、ダァーっと皆死んで行きましたからね。
さて、そう言うことが有って、私は、”何時か覚えておけ、この仇は絶対討つぞ”と(思っていると)
直ぐそばにね、ま、民家が有りまして、潰れとる、”でぇーっ”と。屋根も皆落ちてる。
その中から、「助けてくださーい、助けてくださーい」言う、四五十の叔母さんの声がする。
でその声に釣れられて私は二十歳でありますし、まだ若かったから、「人を助けるなら今だ!」こう思いましてね、
さぁーっと行ってね、垂木をみな避けて、”出してあげましょう。”、そう言うわけでね、「どうですかー、どうですかー」探りに行ったらね、
中の方からね、「ここでーす、ここでーす」言うんだけれども、姿は見えまでした。
しかしそうしている時に、私の傷に気が付いた。
ここからね、まぁカッターシャツで、上着は着ておりませんでした。この(カッターシャツは)長袖でね。
ここ(ひじ)から先、焼けてね、”バァーン”(袖が)飛んどる。
こちらも(反対の手)、ここ(ひじ)から先、焼けて、”バァーン”(袖が)飛んどる。
しかも、ズボンもね、膝頭から下も、焼けて、二本とも、”バァーン”(裾が)飛んで無いんです。
それを見ただけで、「うわぁ~、やられたなー」思いましたねぇ。
その垂木、こうやる時の、判らなかった。 (垂木をこう退けているときには、傷を負っている事が判らなかった) 手は黒焦げですよ。黒焦げ。
そしてね、肩のここから、あの、上腕部言うか、この腕の方からね、今でも、思い出しますけれども、ま、色鮮やかな真っ赤な血が出る。”でぇー”っと流れる。
で、どす黒くなった、焼け爛れた手を通って、指の先から、”ポトポト、ポトポト”血が落ちる。
”うわぁー、やられたー、こん畜生ー、”と思いましたがね、
どこか(体の他の部分も)もうやられとるだろう思うから みな(=体中を)調べる訳ですね、
おばさんの事はちょっと、置いとって調べる。
ところが今度は腰の方からはね、どす黒い血が、もう破れズボン通してね、ズボンないですからね、飛んどるからね、
足の先まで、それこそ、血管が切れて垂れ下がるっていないか思うくらい、あの、血の固まりの様なのがね、ドロドロドロドロ、またこれ、流れる訳です。
それを見た途端ね、もう”やられたー”思ったらね、力が出なくなりました。
そうして見ると人間はね、こうなんか偉そうな事言ってもね、情け無いもんですよ。
それを見た為にね、今まで出てきた元気も全然出なくなった。”もうだめだ”
だから、助けに行こうと思っても、こう自分どうにもならんですね。”うわぁ~”思ったら力が抜けた。
しばらくして、そのまた何分経ったか判りませんが、”おっ そうだ”と思ってね、おばさんに言ったんですよ。間違いなくね、
「おばさん!しっかり頑張っておってよ! 今に沢山人を呼んできて、必ず助けてあげますから、 もう、しばらくです。ガマンしてください!」こう行言ってね、別れた。
別れて行ったらね、まぁ、写真の通り色々見とられるでしょうけれども、
(顔などが)ぐじゃぐじゃになったのがね、手をこう(前に出し手首をたらして)やってね、皆逃げてる訳、皮膚、破れてね
まぁそれは、後から私の状態も言いますが、こうなっとるはね(手首をたらしてるような人)、逃げてる。
そう言う人にね、「あそこに、家の下敷きになって居るから、皆さん、助けてあげましょう!行きましょう!」言うてね、大声で呼んだんです、何回も。
しかし、被爆者はね、その私の声を、さも聞こえなかったようなかっこしてね、
うろうろうろうろ、右往左往逃げ回りよるんですね。
「皆さん!」言うても、何回声かけてもね、私の声を聞いて動こうとする人は1人も居らなかった。
その時に私はね、情けなかった。
こりゃ、アメリカが敵だけじゃないわと、日本人でありながら一緒になって戦争しとるのに、ね、
”一方がやられとる、それを皆で助ける事が出来ないのか”と、思ったらね、
日本人でもろくなヤツがおらんと思うてね、腹が立ったなぁ、
”なんで助けに行かんのか”と思ってね、腹立ちました。
(腹が)立ったけれどもどうしようもない。うろうろうろうろ逃げるだけ。
1人じゃもう絶対、屋根がつぶれとるの、持ち上げられませんよ、どう考えても。
始めの時はね、垂木を避けたりして、出したり思うたが、
もう自分に力は無いし、はぁ、困った困った思った時ですよ、背中がチカチカチカチカ痛い。
”うわぁ、こりゃいかん、痛いなー痛いなー”思うてね、カッターシャツを脱いだ。もう(痛くて堪えられなくてそのままでは)持てんから
そしたらね、まだ、燃えてたんですよ、背中が。
だからね、時間にして10分、15分、火が付いたままでおるんですよ。
だからね、おばさんに対して「どうですかー、どうですかー」言うとる時、火が付いたまま、それが判らない。
痛くも痒くも無かったんですよ。
それはねぇ広島市がね、”原爆戦災史”と言う本の8巻ある、私の事務所にもありますがね、
二年位して(二年位かけて)作った。その中にも書いてある。
最初の時にはね、痛みは全然ない。その位、原爆のショック言うのは大き過ぎて
”ガァーン”と来たらね、皮膚なんかの感覚 みな無くなったんですよ。
だから、ある人の証言では、逃げていて、”えらい痛いなぁ”思うたら、 こんなガラスが(腕に)突き刺さっていた。 血だらけになっとっても判らなかった。
そりゃもう、びっくりする方が、”カァー”となってね、 痛さ全然なかった。
緊張しとるでしょ、だから痛くなかった。
ところが、だんだんだんだん緊張がもどって、 だらーっとしだした。 痛くなる。
それが私の14・5分経っての出来事なんです。 それを思い出すね。
そこで、私は、原爆の事、知らないしね、 (当時に原爆なんて知識は無い) 周りが火事になっちゃいかんおもってね、
自分の直ぐそば落ちたんだ、思うとるんだから、 爆弾が。
だから、(火を)はらって、消して、 ここ(袖)ない。両方ないでしょ。
着たってしょうがないから、もうそうですね、 3・40分したら上、裸ですよ。
下は、破れ半ズボン。短パンになっとるね。 それも綺麗に縫ったもんじゃない、やぶれてだらーっとなってる。
それで、火の中を逃げて行くんですよ、 これからずぅーっと。裸のまま。
夜はワナワナ震える訳ですけれども。 まそう言うことが有ってね、私は(服を)捨てたけれどもね、
しかしおばさんどうなったか分からない。 行ってみよう思ってね、行こうとした頃ですよ。
だからまぁ大体、もう、3・4・50分経って 一時間くらいしていた頃かな、
家が燃え出した。
火はね、3千度、4千度あるんだから、
だから、ぼーんと(衣服などに)火が付く、直ぐ付く。火傷も凄い。
ところが、家が燃えたのはね、やっぱり一時間くらいした後。
しかも戦災史には、正午頃が最も(火災が)激しかった。
もう火の海になってね。これから話ししますけども、
軍隊が助けに来ても、(火の)中(に)入れんのです。
軍隊のトラックが、入ろう思っても入れん。
ま、そう言うことも起こるんですが、
も、とにかく正午頃が火の海になる。 広島中がね。
この、ピンクで書いてあるとこが丸焼けですからね。 全焼するわけですから、何にも無くなる。
さて、そう言う(被害の全体的な)ことは (当日)私は知りませんからね。
まぁ、やられて、 火が、”バァーン”来るからねぇ。
その火の中へ飛び込んで行ったらね、 そりゃ死ぬだろうね。
そりゃどう考えても。
しかしねぇ、 おばさんも助けに行こう思っても、
火がこう(燃え盛っている)のところへね、 突っ込んで行くだけのね、 勇気が坪井には無かったんですよ。
人の命は大事だと、こう思ってもね、 もう何ですね、その時に、
行けば死ぬ事は分かっていても、 突っ込むべきだったかも知れないが、
私は脳でね、避けたんですよ。 火が”バァー”と来たとき”さぁーっと”避けてしまった。
それがきっかけでね、前から来れば後ろ、 後ろから来れば前の方に逃げるし、
もう、火の無い所をうろうろうろうろ 逃げるばっかりです。
で、あの、被爆者が、 その火の無い所が被爆者の逃げ道ですからねぇ、
道があってそこ皆逃げたんです。 広いところは別ですが。
広島のここらを私ら逃げていた。 ぐじゃぐじゃぐじゃ成っとるから何処が道やら分からん。
みんな潰れてくるからガラスがいっぱい、 瓦なんから無論ぐじゃぐじゃ、
しかも木造家屋ですから 釘がいっぱい出て居るんですね。 潰れて。
私は釘を踏まない様なつもりでおりましたし、 踏んでないから。
踏んだらね、もう、(痛さで) ”うぅっ”となったらもう、火に巻かれてる。
(そうなっていたら)今私が話しする事出来ません。
ただ、ガラスなんかはもう、 ぐちゃぐちゃに踏んどるから血だらけです。
血だらけいっても、 「靴履いて無かったんですか?、ぞうりとか何か履物無かったんですか?」 とこう、子供たちが言いますがね、
写真を見てもらったら分かるんです。
ここのね、 ここの軍隊なんか履いていますが、 他は皆裸足なんです。
もう一度私の写真見てもそうですがね、
これが、あの、8月6日の(投下から)3時間後の写真ですよ。
これ見たら分かるようにね、皆裸足。この軍隊はよそから来とるから。
もうその、旧市街(爆心地)に居ったような人はね、裸足なんですよ。 ほら見てご覧、
ほら皆足出とる先が。こうなってここも裸足ですよ。
も、とにかく皆裸足なんです。逃げていった人。
それはね、裸足になる理由があるんですが、
まぁとにかく靴を履いてる人は遠くからやって来た人、探しに来た人。 そう言う風な事。
だから、当時の写真を見たら全部裸足ですよ。 資料館で見ても。
だから今言う逃げる時にガラスの中ぐちゃぐちゃ通るから、
もう、血むくれに成っとりますよ。 しかしこちら(腕)の方の血と比べれば話にならん。 だから問題でなかった。
そういう格好で皆、逃げていくんですよ。 ま、そう言うことが有ってね、
私は火に追いまくられて、 あれこれあれこれ逃げまわすんですが どの町を通ったか知りません。
でまぁ、その道中でね、
目が飛び出た人、腸(はらわた)が出た人、或は肺へ窓枠が突き刺さってね、
呼吸をする度に”ぷくぷく”肺臓が出たり引っ込んだりしとるという様なお爺さんがいたりね、
まぁ、血だらけになってね、ガラスの突き刺さったのを、もう抜きもせずにね、
文字通り血だらけ、血だらけのお化けそっくりの様な男の人とも出くわしたり、
或は、「水を下さい」、「助けてください」言うのも(と言う人も)、そう言うの全然よう助けなかったですねぇ。
で広島には七つの川が有りますけれども、それも皆死体の川に成るんですよ。
それはね火傷が痛いから、川は冷たいでしょ、どうしても、如何に夏であっても、外よりは冷たい、だから小さい子供も皆川へ飛び込む。
だから大人で、或は中学生でも、泳げない人、ねぇ、そう言う人も皆飛び込む。
そりゃ痛くて仕方ないから、入れば気持ちが良いもんだから皆入るわけ。
ところが皆死んでったんですね。泳げない人も多いし、みんなが掴み合いになって、
だから、橋が有ってね、橋げたが有りますよ、そういう所は皆、死体が引っかかってね、もう、むちゃくちゃなってる。
しかもね、死体が流れてね、1キロ(メートル)くらいの所にある島へ流れ着いたという記録も残っとるんですよ、死体が。
ま、とにかく、広島中がもう、陸上はもちろん死体だらけですね。黒こげになって皆倒れとる。
だから私もね、逃げる為にはね、そういうもの(=死体が)転げとるでしょ、
それを、ぽーんと飛ぶ訳いかんから(全て飛び越える事は難しいから)、 こりゃ、死んどるんじゃないか思うような所に、こう行くとね、 もう死んどるからね、全然問題ないから
人の腰の方を踏んで逃げるんですね、
ところが中には、黒こげになって、こうなって(横になっていても)ても、まだ生きとる人がいる。
そこへ私が”タァー”っと逃げよう思って行くでしょ、足を踏んだ時でもね、怒られたですがね、
怒られた言うのは、「バカたれ!」っと言ってこう、”あらー!”(坪井さん)、生きとると思う訳ですからね、
”すみません!すみません!”言いながらね、私は逃げて行ったんですがね。
もう生きとるか死んどるか分からない。そういう世界を掻い潜って来たんですね。
いわんや、今の(話した)ように、 皆血だらけになってるのがいっぱいですよ、もう。
目の飛び出たの居ればね、ま、それはね、それこそね、 筆舌に尽くし難いから、 もう、これ以上言いませんけれどね。
それは、色々写真残ったりしとるからね、 想像してもらう以外に無いです。
が、私は、そう言うところを、 火の中を避けながら逃げて行ったんです。
そして、私はね、親戚のお婆さんをふと思い出して、 まぁその頃はね、(原爆投下から)2時間くらい経っとったかな、
ここ、千田町、ここ有ります。 ピンク色と、そうでない所の境目。
しかし二階から、”バシーン”と 皆お婆さんの家は潰れて居りました。
でお婆さんはね、 部屋の中で物が当ったって血だらけになっとったが、 火傷はしてなかった。部屋の中だから。
そのお婆さんが外で遭ったんです。 まぁ家から出られたんでしょう。遭った。
遭った時に、お婆さんがね、 「直さーん、こりゃ大変だ!大変だ!」言う。
何が大変だか分からんのです。 そりゃ鏡も何も無いからただそのお婆さんがその時には言えなかった。 直さんの姿は言えなかった
ただそのお婆さんがその時には言えなかった。 直さんの姿は言えなかった
言ったらもう直ぐ死ぬと思ったから。 こう言うんですね。
もちろんその力は尽きて居ましたからね、 もうやっとの思いでお婆さんの所
だから何万人の中でね、親戚に遭ったんだから、
もうなんですよねぇ、身内にあって、 やれ嬉しいや!
もう助かったというか、 なんと言うか安心感ですよね、
そりゃ治療してくれるような(事は)、そりゃ無いと思うが、
とにかく助かった!(と)思う気持ちが強かったんですが、 お婆さんはそうじゃなかった。
「直さん、こりゃ大変だ!こりゃ大変だ!」 言って、
その途中はね、 死んだり、生きたりと言うような状態が有ったから、 まだよう言わなかった。
戦後になっても、 戦争が終わっても、 お婆さん、よう言わなかった。
私も少し元気になって、 家の中を歩いたりね、 する事が出来る様になった頃になって
こりゃもう話しても良い思って、 してくれたんですよ。
耳なんかね、ちぎれとったんですよ。
今では、この辺(ちぎれていたのが) ぎゅーっとこう、 なって(付いて)ますがね。ちぎれとった。
それでね、もう(顔の)皮膚が黒こげになって、 ずるずる、 血だらけになっとるんですね。
でもちろん手の甲は、破れて(皮膚が)裏(返っている)、 皮膚が垂れ下がってる。 まぁ(それらは)みな、火傷ですからね。
でまぁ、お婆さんは頭、 顔の方は見えとる訳ですからねぇ、
唇なんかはへ、火傷でね、水ぶくれ。上唇もこうだ、 ぐわぁ。下唇もこうだ。(膨れ上がっている)
だから、こんな風(顔他が酷い怪我)になってね、 表れたもんだからね、
お婆さんもはじめは、 直さんだと思わなかった言うんですね。 びっくり言うんですね。
ところがそこだけでは無いんだ。 皮膚垂れとるんですよ、 ズルズルに、ね
だから私もここ(服の肩の辺り)破れてて、 赤身が出とる。
逃げていて、人にちょっとでも当られたらもう、 飛び上がる程痛い。 そりゃもう話にならん。(程の痛さ)
もう痛い、 痛さ言うのは表現できんくらい痛いんですが、
そう言うことは知っとるが、お婆さんが、
お婆さんが、後ろ回ったら背中がもうまっかっか、 火が付いとったもんだからね、
脱いで、生身が出たままだから、 お婆さんはもう、 「これはもう助からん」思うたんやね。
しかも腰の方からね、足の先までね、ここ(指を指し示しながら)、 下脱いだらね、ここと同じですよ、 (今見えている指と足の先まで火傷の程度が同じ)
(火傷の跡が)ぶぁ~っと、 ここらからね、全部、ここも、ここも(両腕を指し示し)、 背中、腰、
腰の方なんかもね、 後で触ってもらってもいいんすが、 骨と皮しか無いんすよ。
(背中の傷跡には)肉は無い肉は、 原爆でやられたままで、それが戻りようがない。 まぁ後で話ししますが
その為に(この背中の傷が原因で)血が作れん、 私は、上手に、人の100%作れないんですよ。
大体6・70パーセントしか作れない事を、 大学が、40日の検査の結果証明してくれとる。
だからあなたは6・7割くらい力、 血を作れ無いんだから、 だから、無茶
普通にやっとったって倒れますよ、 とこう言われた。
それを仕事についてね、 「私は被爆者だから、休ませて下さい」とか 「私は勤務時間を短こうして下さい」(なんて)言わない。
そんな事いったら、 「お前、止めぃ!」言われるからね。
だから、それを隠しているか、 がんばって行こうとすると入院する。 十回ほど入院しとるからね、私は。
ま、それはそれとして、ちょっと途中話しはよそいったが、
(原爆投下当日に話しを戻しまして) お婆さんがね、そう言ってたお婆さんがビックリ仰天
ここで私も力尽きよったからね、 こりゃ、お婆さんと一緒で、私がもし死んだら、 お婆さんは死体を放っておく訳にはいかない。
なんか処置せにゃいかん。やっぱり傷しとるんですよ、血だらけだった。
ところが、(傷だらけの自分がお婆さんと)いっしょに居るのか、 (それで)共倒れするか、 お婆さんと居ることがいけない事だと思ってね、
それこそねぇ、腹から胸の方までね、情としては(お婆さんといっしょに)居り語ったかったんですよ。
「やれ助かった!」、「身内に会った」、「親戚に会った」、「なんとかなるだろう」という気持ちが物凄い強かったが、
ここから上の頭のが、やはり情的にはそうだったけれども、理性的にはね、理性で行くと
「おい坪井、お前それで良いのか? お婆さんのとこ居ったら、お婆さんに迷惑かかるぞ。だからお前は分かれにゃいかん。」
こう言うようなことが頭にこう、なってね、それから後から考えてみたら、大体20分くらいで別れるんですよ。
でね、お婆さん、逃げるんだったら港、宇品広島港って港があるんですが、桟橋が有ってね。
「南に逃げてってください」 「まかり間違っても山手、北の方に出ちゃいかんよ」ね、
「逃げるんだったら南に逃げなさいよ!」こう言ってね、
火がどんどん吹きよったから 「北の方に入るんじゃない」こう言ってね別れようとしたんです。
そしたらお婆さんがね、 「直さん、直さん」って私の手引っ張ってくれるのに、
私は「パァー!」っとやってね、 本当に鬼の様な気持ちでね、別れるんです。
それが(会ってから)20分くらいで別れた。
だからねぇ、情としてはねぇ、 「やれ助かった、やれ嬉しいや」と思ったが、それを押さえてね、別れる。
そして、(自分は)逃げる当ては無い。どこもない。
勿論大学も行ったりね、いろんなところ行ったり、行ったですよ。 だめだだめだ、(それらが何処も)もうこんな(=身振りで酷い状態)所。 どうにも成らん。
そこで(それで)、最後にお婆さんの所に行ったんだが、 お婆さんの所では無理に別れて、
後から地図で見たら、大体、その逃げる当ても無し、 もう精も魂も尽きとるから、
それこそ、体力も無ければ気力も無い、 そういう様な状態に有ってね、 200mくらいのところで、バタッと倒れたんだ。
別れた後、その、「もう駄目」。 だからもう、 そのままなにもなければ勿論ここで話しとる事は無いんだが(生きては居なかった)
そうしてたらね、前で立ち話しよる。
御幸橋に、(地図を指しながら)ここに御幸橋がある。 御幸橋に仮治療所が出来たそうだ。
「早く行って皆さん、治療してもらいましょう!」
こういう話を聞いた。わたしが倒れたまま。
あと200mかそのくらい、もう200mあるかなし、 よし、それならあそこまでガンバッテ行こう!
いうわけでね、これがこう500mですから、 (地図上の爆心地から500m間隔で引かれた二つの円弧の間を指し示しながら)
ま250はあるかな、まぁそんくらい、まぁ200mくらい。
ようし行こう!てね、ガンバッテ行ったのが、御幸橋で、 さっき見せました、この写真ですね、
ここが御幸橋。ここがランカンです、橋ですよ。 これがね、警察の今で言えばポリスボックスですね、派出所です。 そりゃもう間違いないですね。
で、「ここへ治療所ができた」いうもんだから行ったら 治療所じゃ無い。
まぁ人に聞いてみたらねぇ、「あなたはどこどこですか?」 罹災証明というかね、罹災者名簿いうか、
そういうことやっとるだけでね、 治療も何にもありゃせん。
みなくたびれて、こう(橋の上で座ってる)
これは(原爆投下から)早い時期ですよ、 これから後何千にもなる。 わぁ~っ、いっぱいになる。
その中の1人、 ここに写っとるのが私なんですからね。 これ私なんです。
ま、コピーは有りますけどもね、 それはたまたま新聞社が写してくれとったんですが それはその時は全然そんなこと関係なく、
で、まぁ、これは治療所だ言いながら、 なんも治療もありゃせんが、
とういうな、避難所ですよね、結局。
こりゃだめだと、とこう思いましてね これ石ころいっぱいころがっとるでしょ?
それをね、拾ってきて、 お堂へね、お堂へ、
『坪井は、ここに死す。』と 一生懸命ここで書いたんですよ。
何故そう言うことをしたか言うんでがね、
それはね、上裸ですよ、下は半ズボンだけ、 自分の身分を証明する物何にもない。
昔はね、今の様な名札でなし、 (胸を指し)ここに皆縫い付けてたんですよ。 戦争中は、
血液型とか、住所とか、 ま電話番号まで有ったかどうか知らん、
名前とかね。年とか、男性女性とかね 分からなくなる、戦争で(顔も)ぐしゃぐしゃなるから。
それでね、(胸が)縫うとこ(になっている)。
ところが、私は焼けたからボーン、捨てとるから無い。
無いからね、せめて 『坪井という人間は、ここまで頑張って生きてきました。』と、
『しかしこの御幸橋で、最後死を覚悟しました。』 という事でね、
『坪井、ここに死す』と 一生懸命彫ったんですよ。 『坪井ここに死す』と。
だから、 『頑張ってここまで来ましたが、私はもうここで死にます』 と、いう事を書いた。
そりゃ間違いない、20歳ですしね、
小さい時にね、原爆を受けたんじゃない。
でそう言うことは有ったんですが、 誰も見てくれる人おりません。
ぐしゃぐしゃうじゃうじゃいっぱいになったんですからね、 千人以上なりましたからもう、
まぁそう言うことが有ってね、 覚悟を決めてね、いつ私は倒れたか知りません。
もう、その時にはね、淋しくなってね、 家の事思ったり、同級生の事、クラスの者の事考えたり、 色々な事考えれば、頭がふぉ~っとなってね、
それこそ、真っ白みたいになって
それこそ、どうかなぁ、 空になってしまって、頭が、
で、バタンといったんだろう、思うんですね。(気を失って倒れた)
どこからが死の境か分かりませんが、 とにかくなった、 分からなくなった。
で、そうこうしよる時にね、 ここの(地図を指し示しながら)暁部隊という軍隊がおったんです。
その軍隊が救助活動を始めます。
トラックでやります。
軍隊といえどもね、この火の中へは入れんです。 そりゃ 入れない。
(救助活動をする軍隊と出くわせたのは) 私がこのちょうど境目のところに居ったからです。
この中のほうでね、 火のないところを探しては逃げ回っていたら だめだ。
もう死亡です。その晩までには。
ところが、私は、この(火災が酷い地域との)境目に親戚が居てね、迎えに。 (地図の場所を指しながら)そこに居ったんだ、ここへ。 御幸橋。
でその御幸橋に軍隊がずーっと(いる。)
ところが今のトラックを想像してもらっちゃ困る。 (当時のは)10人も乗ったら一杯になる。
そりゃ今資料館のね、写真展がありますからね、 その軍隊が助けたね、救助活動したトラックが、 写真があるんですよ。
トラックの後ろにね、こう開放して、 みんなしな垂れて逃げていくのがあるんですね、 実物写真がある
だから10人ぐらい乗ったらトラックが一杯になる。
さて、そのトラックが着てね、 途端に”ブォー”ゆうて ブレーキかけて止まるなり、”キー”っ言うような事で
私、なんかね、目が覚めたんですよ。
もう死は覚悟しとったのに
それをほらっとこう(起き上がって)見たら トラックから降りてきた軍人がね、
「おい!このトラックに乗れるのは、若い男性だけだ! 後のは(他は)、後回し!」
だから子供はダメ 乗っちゃいかん
大人になると女もダメ、女は、ぜんぜんだめ
男であっても年寄りはダメ。 年寄りはダメ!
「女、子供、年寄り、これは後回し!」 て言うてね
若い男の人だけ、 「乗れ! 助けましょう!」
でまぁ、2・3台はピストルの輸送をやるんですがね、
10人くらいのたら(一杯になって)ダメ
幼稚園くらいのがのろうとしても、 軍人が”カーッ!”いうて 降ろすんだからねぇ
だから私もまたそこでも腹が立った。 ”なんたるこじゃと!”
軍隊に言わすと、 軍隊の事を先に話しときますとね、
とにかく戦争に役に立つ者だけ助ける。 ここが問題なんですよ。
だから女、子供、年寄りは、 役に立たんのですよ、戦争に、
男であってもね年寄りは 年寄りは鉄砲もって(行軍しても)息切れがして戦争なんかせん そんな者はだめ 助けん。早く言えば。
女は鉄砲よう持たん(鉄砲は重たいから持ち歩けないので)、ダメ 子供は、これもダメ
だから、 戦争に役立つ人だけ人間あつかいしよる。 これが軍隊の考え方ですよ。
戦争に ”勝つか、負けるか”だけなんです。
人間がね、人間の命はどうの、人権はどうのは、 関係ない、関係ない
もう、まぁ、物と同じですよね、弾薬と同じですよ 武器と同じ、人間も。
つづく・・・

August 6,9, 1945 to May 27, 2016 to ...
Very thank you Mr.Barack Obama!!

Mr.Barack Obama & Sunao Tsuboi san.

Mr.Barack Obama & Shigeaki Mori san.
We must believe can make peace by our strong minds.


Under constraction
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島津伸子さん、姐御のstray sheepさん 竹本多映子さん

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